むかし村 楽市楽座について


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市という場所

市は"斎く"が語源と言われるように、昔は単なる交易の場ではなく、人間の力を超越した何らかの力によって支配されている場だと信じられていました。その例をいくつか紹介しましょう。


○642年の天候不順に際して、もろもろの神を祭ったり、しきりに市を移動したが効果がなかった。(『日本書紀』)

○705年の旱ばつで、雨ごいをしても効果がないので、市を開くことを中止した。(『続日本紀』)

○839年の旱ばつに際して、東西の市の人に雨乞いをさせた。(『日本紀略』)

○1030年、1092年、1135年に、宮廷にがかかったので、市を開いた。(『日本紀略』、『百練抄』)

○あるとき、空がにわかにかき曇り、雷鳴が響きわたり、大音響とともに天から巨石が落ちてきたので、その場所で市を開いた。(秋田県横手地方のある市の伝承) 

このように、市と天とが結びついていると認識されていることが大変おもしろい点です。したがって、『日本書紀』に出る「海石榴(つばき)市」「椿市」「阿斗桑(あとくわ)市」などのように樹木の名をつけた市の樹木は、市の存在を示す目印というより、天から神が降りてくるために存在したのでしょう。(中略)市が立ったと推定される場所に現在でもしばしば大木が立っているのは、市が立った頃の名残かも知れません。



新市町大字上安井・五日市地区に残るムクの木
1984年に落雷で倒れた。樹齢1000年余といわれ、『福山史料』(1809年)にも出てくる。

市場は市庭とも書かれますが、目に見えない力に支配された"庭"だったわけです。そこでは領主も権力をむやみに行使できません。『一遍上人絵伝』に描かれた福岡荘の市では、一遍に迫る備前国吉備津神社の神主主従のうち、右端の人物ははじめ弓矢を握っていましたが、それが後で消されています。市で弓矢を用いることは、当時常軌を逸した行為という暗黙の了解があったので描き直したのでしょう。市は平和な領域("アジール")だったのです。


そのような平和領域で、古代にはしばしば歌垣・会議・祭儀が行なわれ、中世には僧にとっては布教のばであったし、修験者がやってきたり、遍歴の民であった職人や芸能の民もここに立ち寄り活動しました。反面、雑踏めがけて犯罪者が逃げ込んでくる場でもあり、処刑が行なわれる場になることもありました。人間のもろもろの感情がここで交錯しました。交換の場は、即ち交感の場であったのです。 


(中略) 


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楽市楽座・「市」のお話
2005/4/11update 1998/03/10open