むかし村 楽市楽座について

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「市」の歴史 -市の発生、やがて町の成立へ-

「日本書紀」によれば、既に5〜6世紀に大和国や河内国には、「市」が立てられたことが知られます。まだ貨幣が造られていない時代です。民衆のための市というより、権力者のぜいたく品の交換のための市と言われています。律令体制下では、都に政府が維持・管理する東市・西市が置かれ、交互に市が開かれました。全国の民衆から徴収された調(ちょう)や庸物(ようもの)などの余剰分が放出され、役所や寺社、貴族たちが必要物を求めたり換貨しました。備後国ではこの頃、葦田郡大山里(おおやまのさと)の住人品治牧人(ほむちのまきひと)が正月用品を買いに「深津市」に出かけた時の逸話が『日本霊異記』に出ますが、当時の地方の市については必ずしも歴史学界共通の認識に至っていません。


律令体制がゆるむにつれて、調や庸物がその地方の市(特に国衙[こくが]周辺の市)で購入して調達される仕組みが広がります。また、増える一方の荘園では、荘園領主(本家)に送らなければならない年貢や公事(くじ)物を、現地の市でまかなう場合が多く見られます。各地に市の成立を促したのは、このような経済の仕組みがあったのです。中世は、全国各地に市が立った時代です。当初は、ほとんどが月3回開かれる三斎(さんさい)だったと云われています。近く同士の定期市は互いに市日が重ならないようバランスよく並んでいました。


やがて六斎市に変身する市も現れます。農業生産力の拡大と、あわせて地方特産物が登場した事、銭(中国からの輸入銭)が普及した事などが商業を発達させた要因です。いろんな生産物が市に持ち寄られたと言われますが、市座(市で商売できる権利)は、誰でも簡単に得られたわけではありません。


やがて、地方でも常設店舗が現れます。このような場所が「町」です。1648年に再建されるよりも前の吉備津神社の様子を描いた図(近世初頭に作成か?)には、門前に「町」という文字が見え、職人も定住しているようです。


備後吉備津神社の門前(境内図部分)



中世もくだってくると、戦国大名などの権力者が市や町を支配しようとして圧力をかけます。そのような複雑な諸関係を廃止し、自由に商業させようと「楽市・楽座」の制度を実施したのが織田信長だと言うことです。


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楽市楽座・「市」のお話
2005/4/11update 1998/03/10open