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ふるさと 新市町の文化財 |
1.旧芦品郡域の概要 当地域は、芦田川下流沖積平野(神辺平野)を中心とする南部地域と、平均標高500mの高原地帯(吉備高原)の北部地域とに分けられ、平地と山間とその接点の文化が見られる。地理的には広島県の東部で岡山県との県境に位置している。行政的には広島県だが、文化的にも経済的にも岡山を中心とする吉備の一角に属し、今も昔も交流が活発である。 古代においては、九州・出雲・吉備の接点として多数の特色のある遺跡が見られ、古代山陽道沿いには備後の国府・一宮・国分寺などが設置されていた。中世は、国人領主の拠点として繁栄し、戦乱にも巻き込まれた。 近世初頭に政治・経済の中心が福山に移るまで、備後の中心地域であった。近世以降は福山経済圏の北部地域として、地理的には影が薄いが、各市町村が小粒ながら特色のある文化・文化財行政を展開している。 |
2.新市町の概要(地域的特性) 新市町の周囲は、北を神石郡三和町、東から南にかけて福山市、西を府中市にかこまれた一郡一町の南北に細長い町である。気候は、平均14.4度で瀬戸内特有の温暖な気候のため、天災はほとんどなく自然に恵まれた豊かな地域である。 地形は、標高約500mの吉備高原が瀬戸内の平野部に接する地帯を町域としているため、北部は山林地帯、南部は神谷川・芦田川による幅の狭い沖積平野になっている。町全体の面積は52.88ku で、人口は約 23000人いるが、北部山林地帯は急激な過疎化が進み人口のほとんどは南部の平野部に集中し、隣接する福山市・府中市を中心とする備後 100万人経済圏の一角をなしている。 主な産業は、日本三大絣の一つである備後絣を基礎とする繊維産業が盛んで、金丸の菊とともに全国的に有名である。 |
3.新市町の文化財保護行政の目的 新市町の文化財保護行政の目的は、そこに生きた人々の暮らしと生命をおもい、先人が残した有形・無形すべての文化遺産を民衆の視点から評価するために、多角的な調査研究をおこない、正しい保存・保護と、長期的な展望に立った有効活用をおこなうことによって、住民主体の豊かな文化環境の創造をめざすものである。 しかも、新市町および周辺地域には、旧石器時代から現代におよぶまでの約1万年間の人間の営みの証である文化財が数多く残っており、現代の生活に文化財を身近に感じることができる絶好のフィールドに恵まれている。 |
4.新市町の指定文化財(重要文化財) (はじめに)2002年2月22日、新市町教育委員会において第1期新市町重要文化財として21件の文化財が指定された。新市町には現在、国指定重要文化財が4件、県指定重要文化財が9件あり、今回の町指定重要文化財を含めると、指定文化財は34件になる。 今後も、新市町重要文化財の第2期指定をすすめる予定である。(新市町の指定文化財一覧表) |
(指定文化財解説) T 国指定重要文化財 1、毛抜形太刀(4口) 吉備津神社に所蔵される。4口ともに鎬造、庵棟、腰反りで鍛えは板目、刃文は直刃である。茎に毛抜形の透かしをした平安時代に盛行したこの種の太刀の模古作である。4口とも郷土の刀工の手によるもので、2口づつ尾道の刀工五阿弥長行と三原の刀工正光の銘があり、いずれも室町時代後期の作である。 2、木造狛犬(3躰) 吉備津神社に所蔵される。「あ」形が1躰、「うん」形が2躰ある。写真中央の銀の狛犬と右端の金の狛犬が対をなし、左端は漆箔のものは、「うん」形が所在しない。いずれも寄せ木造りで、平安時代の作と思われる。 3、吉備津神社本殿(1棟) 1648(慶安元)年、水野勝成により造営された。入母屋造で、桁行7間(18.5m)、梁間四間(10.8m)あり、比較的大きいことと備後・安芸地方によくある「余間造り」の平面をもつことを地方的特色としている。社殿は、向拝3間・正面千鳥破風付・軒唐破風を持った江戸初期の建築でありながら、室町の風格と桃山彫刻をかねそなえている。 4、一宮<桜山茲俊挙兵伝説地> 『太平記』によると、1331(元弘元)年備後の豪族桜山慈俊が、楠正成に呼応して挙兵し、備後一宮の南方の桜山城を拠点に、備後半国に勢力を拡大した。しかし、笠置山が落城し正成も戦死したとの風聞で、味方は離散し、慈俊は一族とともに翌年正月吉備津神社に放火し自害したと言う伝説地として、吉備津神社(一宮)周辺が史跡に指定されている。 |
U 県指定重要文化財 5、銅製錫杖頭(1柄) 吉備津神社に所蔵される。長さ31.5cm、環横外径15cm、柄管12cmで、柄管に応仁3(1496)年の銘がある。柄管の上部に円形の環をつけ、環の両肩ならびにその対角の環上に孤月形の突起がついている。この錫杖は、環に古い形式をとどめており、大形であるのも珍しい。 6、宝篋印塔(1基) 金丸の厚山地区に所在する。花崗岩製で、高さが1.3mあり、基壇に康暦2(1380)年の銘があり、供養のために建てられたのがわかる。当地には宝篋印搭が県重文の他に2基あり、これら3基の宝篋印搭が一定の規格を持って造られていたことがわかる。 7、伝潮崎山古墳出土三角縁五神四獣鏡(1枚) 文政10(1827)年に潮崎山古墳から短冊型鉄斧とともに出土したと伝えられる。鏡は、直径22cmの三角縁神獣鏡で、鳥取県の国分寺古墳出土鏡と同型である。神獣などの鋳出や保存状態は良好で、県内で出土した神獣鏡のなかでも最も美しい。 8、伝潮崎山古墳出土短冊形鉄斧(1口) 文政10(1827)年に潮崎山古墳から三角縁神獣鏡とともに出土したと伝えられる。長さ24.8cm、幅5.5〜7cm、厚さ0.4〜1cmで、古手の鉄斧である。三角縁神獣鏡が、広島県重要文化財に指定されたのを受けて、翌年追加指定された。 9、吉備津神社神楽殿(1棟) 建立年代は寛文13(1673)年である。高床の舞楽舞台に入母屋造妻入の屋根を架け吹き抜けとなった「舞殿」の型式である。規模は、桁行2間(11.8m)、梁間1間(4m)あり、屋根は桧皮葺であったが、現在は銅板葺である。鎌倉時代の『一遍聖絵』には、舞楽舞台が描かれており、舞台の存在は鎌倉時代まで遡ることができる。 10、宮脇石器時代遺跡 常の品治別神社一帯の、神谷川上流右岸の平地にむけて傾斜する比高約20mの丘陵端に位置する。縄文早期の押型文土器と細石器を出土した遺跡として知られているが、二次的に堆積した可能性がつよい。縄文時代の遺物は、押型文土器・撚糸文土器・無文厚手土器ならびにそれにともなう石鏃など縄文早期中葉のものが中心である。縄文時代以前の遺物は、サヌカイト製の細石核・細石刃ならびに小型のナイフ形石器が少量伴出し、旧石器時代終末およびそれ以降の過渡期的様相を示す。 11、神谷川弥生式遺跡 神谷川左岸の丘陵中腹に位置する弥生後期の集落跡である。1947(昭和22)年以来3回の発掘調査を実施し、出土した土器は「神谷川式土器」として広島県東部の弥生式後期の土器研究の指標となっている。遺構には、竪穴式住居跡・炉跡・貯蔵穴などが検出され、高地性集落を構成することが明らかとなった。なお、遺跡下端では縄文晩期後半の遺物を出土する。 12、大佐山白塚古墳 標高188mの大佐山山頂よりわずかに南に下がった高位置にあり、付近からの芦田川中流域の眺望は格別である。墳丘は方墳で、内部主体は巨大な花崗岩の切石を用いた奥行7.8m、幅1.8m、高さ2.3mの横穴式石室で、石室中央に間仕切があり二室に分れている。石と石との隙間には、漆喰がつめられた痕跡が見られる7世紀前半の古墳である。 13、相方城跡 相方城跡は、標高191mの山頂を中心に、石垣を120m以上にわたって築いた近世初頭の山城である。角の部分には切石を用い、打込接で築いている。織豊期における毛利氏が山陽道筋の情報を集約し、対応するために1587〜1591(天正15〜19)年の惣国検地後にあって、1600(慶長5)年の関ケ原の戦いの直前まで整備したとみられる貴重な遺跡である。 |
V 第1期新市町重要文化財 14、素盞嗚神社本地堂(1棟) 現在、天満宮として祀られているが、もともと戸手祇園社(早苗山天王院)の本地堂(観音堂)として、建立されたものである。規模は、桁行三間・梁間三間の入母屋造の向拝付の平入で、本瓦葺である。現在の社殿は、延享5(1748)年に再建されたものである。 15、相方城城門(2棟) 素盞嗚神社の北側の旧県道に面して、相方城から移築されたと伝えられる城門が東西にある。東側の門は、三間一戸の薬医門で、装飾の少ない質素な意匠で、現在は門扉を失っているが、扉当りが掘り込んであることから、両開きの門扉があったと考えられる。西の門は、櫓門となっているが、下段の鏡柱まわりと門扉だけが当初材で、もともと東側の門と同じ薬医門であったと考えられる。関が原の戦い(1600年)以前の、建物と考えられ、現存する城門では、国内最古のものである。 16、吉備津神社拝殿(1棟) 神楽殿(県重文)と本殿(国重文)の間に立つ大型の木造建造物で、本殿・神楽殿とともに慶安元(1648)年に造替されたものである。規模は、桁行五間・梁間四間の切妻造で、屋根は銅板葺きである。棟通りの柱3本は、永和2(1377)年再建の本殿の角柱を2本ずつ継いで拝殿に転用したものである。 17、吉備津神社北楽所(1棟) 神楽殿(県重文)の前方にある上随神門の南北にそれぞれ楽所があり、北側の楽所を北楽所という。鎌倉時代の『一遍上人絵伝』には、上随神門の位置に入母屋造の妻入の社殿がみられ、その左右の廊状の建物として描かれている。規模は、桁行三間、梁間二間の入母屋造、本瓦葺きである。現在の建物は、嘉永3(1850)年に造替ものである。 18、吉備津神社南楽所(1棟) 上随神門の南側に立つ楽所である。北楽所と同じで、規模は、桁行三間、梁間二間の入母屋造、本瓦葺きである。現在の建物は、嘉永3(1850)年に造替ものである。神楽殿に対して、南北の楽所から楽を奏することによりステレオ効果の演出が可能である。 19、吉備津神社上随神門(1棟) 神楽殿(県重文)の前方に立ち、南北の楽所に挟まれている。規模は、三間一戸の八脚門、入母屋造の本瓦葺きである。慶安元(1648)年に造替されたものであるが、19世紀前期に中央間を改変したり、軒や長押などの部材も取り替えている。 20、吉備津神社下随神門(1棟) 上随神門の下方に離れて建つ大型の八脚門である。規模は、三間一戸の八脚門、入母屋造の本瓦葺きである。鎌倉時代の『一遍上人絵伝』では、三間一戸の楼門に描かれているが、室町期の絵図では、現状と同じ八脚門に描かれている。18世紀中期の造替と考えられ、桁行きの中央間が特に大きい点が特徴的である。 21、吉備津神社三重石塔(1基) もともと吉備津神社境内に所在していたものを現在の位置に移設している。現高は1.53mで、笠の三層目と相輪部を欠失している。基礎に銘文があり、元亀3(1573)年に寄進したことがわかる。また、石工は、尾道の石大工の忠昌である。 22、吉備津神社宝篋印塔(1基) もともと吉備津神社境内に所在していたものを現在の位置に移設している。現高は、2.3mで相輪部は九輪より上部を欠失している。四方に金剛界四仏を印刻している。無銘であるが、南北朝時代中期の建立と考えられ、上部の請花および宝珠を欠失しているものの、新市町内最大の石塔である。 23、吉備津神社六角燈籠(1対) 本殿(国重文)前に、設置された六角燈籠で、高さ2.9mある。本殿の再興を記念して、福山藩主水野勝成が、慶安2(1649)年に建てたものである。吉備津神社境内に現存する紀年銘のある石燈籠では最古である。 24、吉備津神社大鳥居(1基) 旧県道に面して東向きに所在する花崗岩製の明神型鳥居である。高さは中央部で5.8m、両隅で6.25m、笠木幅7.55m、柱の直径0.54mの大型の石鳥居である。本殿と同様に慶安元(1648)年に建てられたもので、銅製の額には「吉備津一宮」と標示されている。 25、素盞嗚神社宝塔(1基) 旧天王院墓地内の、石造物群内に所在する。現高1.4mで相輪部の上部を欠失しているほかは完存している。基礎部には、幅44cm・高さ30cmの格狭間が三方あり、縁の部分に天正6(1578)年の紀年銘がある。 26、常金中学校五輪塔(1基) 常金中学校の北側に所在する。中学校敷地内から出土したと伝えらる。高さ1.1mの花崗岩製で、水輪部に四方梵字はあるが、紀年銘はない。しかし、形態から鎌倉時代中期の造立と考えられ、町内では最古の五輪塔である。 27、月見山観音寺当麻曼荼羅<絹本着色浄土曼荼羅>(1幅) 元禄12(1699)年、福山・専故寺より金丸・観音寺に贈られる。主図は弥陀三尊を描き、光台、楼閣、飛天、下方に宝池・蓮花など阿弥陀経に描かれた世界を精巧に描く。周辺は阿弥陀如来礼賛図(浄土曼荼羅趣法図)をめぐらしている。 28、素盞嗚神社磬(1面) 磬(ケイ)は寺院の講堂に備えられ、時刻や講義の開始に際して用いられる合図用の金属板である。横24cm、縦15cmの大きさで銅や青銅で鋳造される。木製の類似品に木魚がある。この磬は牛頭天王寺再興に当たり寄進されたもので天文10(1541)年の紀年銘と寄進の由来が記されている。 29、赤羽刀(15口) 太平洋戦争中、鉄などの金属類が不足し、1943(昭和18)年「金属回収令」が出される。集まった鉄器や美術品の多くは兵器に姿を変えた。その中の一つ、日本刀だけは東京都赤羽の倉庫に保管されたところから「赤羽刀」と呼ばれ、戦後は国立博物館の所管となった。三年前、各地の博物館に所管替えが可能となり、しんいち歴史民俗博物館ではこのうち「三原刀」のみ一五口を収蔵した。三原刀は備前長船刀以前の刀工の誂えたもので、室町時代に三原市で産地を形成した。 30、備後絣(一括) 備後絣関連資料約9000点、一括。 31、城山第1号古墳 直径21mの二段の円墳である。未調査のため詳細は不明であるが、城山・後池地域では、現存する唯一の横穴式石室導入以前の時期の古墳である。また、昭和初期ごろ主体部を盗掘された跡が残る。 32、後池第1号古墳 直径11mの円墳で、横穴式石室を主体部に持つ古墳時代後期の古墳である。現存する石室内法は長さ6.2m、幅1.6m、高さ2.5mを計る。石室の規模から、調査後消滅した後池第2号古墳とともに後池古墳群では中心的な古墳といえる。 33、後池第17号古墳 直径10mの円墳で、横穴式石室を主体部に持つ古墳時代後期の古墳である。現存する石室内法は長さ3.7m、幅1.4m、高さ1.4mである。造成中に発見され、発掘調査の後に復原整備された。傾斜地における古墳築造の過程が確認された重要な古墳である。 34、権現第1号古墳 横穴式石室を主体部に持つ古墳時代後期の円墳である。現存する石室内法は長さ5.8m、幅1.8m、高さ2.3mである。周辺に十数基存在する権現古墳群では中心的な古墳である。 |
(資料:しんいち歴史民俗博物館) |
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